玉を見極めて~鹿児島③

 今年に入ってからのLILIUMの流れは、昨年現実に体験し理解できなかった部分、やり残してしまった宿題に取り掛かっているかのようです。気づいたらその流れにいた・・という感じなのですが、気づいてからは意識的にその宿題にとりかかりました。

去年はさくらひめに始まり、かなさな、さらにもうひとつの波動やよいひめと出会っていくのですが、さらにその背景や意味を知るための今年の旅となっています。

そして令和。今、少しずつ宿題の解答を導くことが出来ています。したがってメニューページを更新したり、新しいメニューの準備をしています。

 

3月、4月と考えていたことは、光と闇についてです。そこで浮かび上がってきたのは、信仰心というキーワードです。神から信仰心を試されることなんてあるのでしょうか、例えば生贄などの犠牲行為です。異なることに対して非難し排除し攻撃し続ける力、例えば神の名のもとの戦争です。単純にそれが神であり光であるなどおかしなことです。

ひとつ体験として分かったことは闇は光の中に少しだけ混じって巧みに光に成りすましているということです。どちらが光か正しい地図をすぐに手に入れたいけどそれは経験しないと難しいかもしれません。

 

玉石混淆~。玉を見極めて。自分の目で確かめることが重要です。

 

光とはワンネス、統合を意味するのだと思います。それが分離、隔てられ、光と闇になり対立します。対立することで生み出された憎しみや怒りや優越感が重い波動となり闇という巨大な集合意識となります。そして闇が現実化し苦しみを経験する二元性と呼ばれる時代を築き上げてきたのだと思います。

分離するという行為について、私たちの想像しえないこと、地球外の存在達の介入もあったでしょう。ここまで単純ではないと思いますが。今理解していることです。

これからの私たちはどちらがいいか悪いかではなく、互いを認め仕組みを理解して一元性へ元に戻るという軌道に入った新たな地球の時間を経験していくのでしょう。

 

 

 

 

前回ブログ続きです。

桜島では、生きた大地の波動を全身で感じ、エネルギー酔いでふらふら。こんなこと久しぶりです。

宿で温泉に浸かった後、目に見えないけど何か大きな動きが始まっていることを感じました。

翌日は、荒立天神、諏訪神社、吾平山上稜、鵜戸神社、高屋山上稜を周りました。地元の人にもお声がけをして頂き貴重なお話も聞くことが出来て大変すばらしい時間となりました。特に吾平山上陵(ウガヤフキアエズ陵)は息をのむほど美しく秘密にしておきたいくらい(^^

ここは、伊勢神宮の原型ではないかと思われます。

帰路につくため鹿児島空港の出発ロビーへ向かうとき、大きな窓から景色を眺めると、あんなに堪能したはずなのに、帰りたくない…と涙が滲みました。(どんだけ好きなんだっ)

 

 

鹿児島から帰ってきて1週間後。アークトゥルスであろう人々の存在を感じ始めました。さらに1週間が過ぎ、真夜中ワークが始まりました。

 

【ワークを開始しようと意図すると風が巻いた。エビス、恵比寿神と混同され捻じ曲げられたヒルコ神。ヒルコ神はさくらひめかもしれない。山々に覆いかぶさるような大きな体、といっても形はなく、ツルっとしたエネルギー体で光の加減で透明だったり、真っ白だったり、桜の花びらを抱えているように見える。怒っているような、笑っているような、表現できない気持ちが伝わってくる。それを封じ込めたのがアークトゥルスの人々】

 

 この夜のワーク後さらに1週間をかけて、アークトゥルスの人々がKANASANAの光の筋に添って天に昇っていきました。

このワークで解き放たれたヒルコ神へ繋がっていくのは、前々回のブログの体に入ってきた赤い龍です。その龍に出会ったのは石體神社。石體とは石の体。。石の体と表現されるのは、火山に宿るエネルギー、火の要素である…と分かった前々回のブログに記したワークの経験にすべて繋がっていました。やはり、日本書紀でも古事記でも棄てられた神として登場するヒルコ神の時代があったのだと思いました。

鹿児島神宮の前に流れる川を辿ると石體神社があります。また更に辿ると元宮でないかと思われる場所に蛭兒神社がありました。もしかしたらその大事な場所を隠すために鹿児島神宮が建てられたのかもしれません。さらに鹿児島神宮と位置的に対になっている桜島の大元神社へ向かったのも意味があったのだろうと思いました。

 

 

冒頭に書いたやり残した宿題はこのヒルコ神の解放が背景となっていたと感じています。その時代の対立関係が今現実となって現れた。

ややこしいのですが、また今現実に現れる前に、(なんとなくおかしい)という目に見えないエネルギーを感じたことが発端となっています。それが分離をうむ存在だったのかもしれません。

今回の経験を得て、エネルギーワークで現実の問題を取り組むことで分かったことがたくさんありました。

でも面白いことに、というか当たり前なのですが、エネルギーワークだけでは終わらないんです。

なぜなら、私たちは物質として肉体を持って地球で体験しているからです。今はこのワークで感じたことを肉体と心で経験しています。

胃が痛くなったり、お腹が痛くなったり、体が重かったり…

これまで冷静に努めて分析していたのに、激しい怒りで爆発だったり(^^;

それでいいんですよね。ワークをした後は、そう、そう、こんなストレスを抱えていたのね、、と感じて過ごせばいいのです。

やはり気づくことは癒しなのだと再確認しました。

 

 

 

今回も読んでくださりありがとうございました。

 

Ailius